インターネットの掲示板やブログやツイッターなどで、人の死亡記事を喜ぶ書き込みをしているのが許せません。匿名性だからかもしれませんが人の命を何だと思っているのでしょうか。
2011年5月2日に、米国海軍特殊部隊が行った軍事作戦によって
オサマ・ビンラディンが死亡したと報道されたときに
テレビで映し出された一部のアメリカ国民の反応は歓喜にみちあふれていましたよね。
また日本と米国の戦争においても
1946年、極東国際軍事裁判が行なわれました。
その内容は平和と人望の罪を犯したとして
日本の戦争主導者を裁くというものでした。
しかし裁判の冒頭、戦争そのものを罪として問えるかどうかが議論になり、
アメリカ人の主席検察官キーナンは
日本を侵略国として裁くことは正当と主張します。
一方アメリカの陸軍少佐のブレークニー弁護人は
合法的であると反論します。
ブレークニー弁護人は次のように日本を擁護し続けました。
「戦争での殺人は罪ではない。
戦争は合法的であるからだ。
合法的殺人は残忍で非道徳でも犯罪として責任を問われたことはなかった。
真珠湾によるキッド提督の死が殺人罪になるならば
広島に原爆を落した者の名も挙げなければならない。」
しかし弁護人の主張は裁判官により却下されます。
日本とアメリカの戦争だったのに、
アメリカを正当化するアメリカ人と日本の味方をするアメリカ人とが裁判で戦っているのです。
不思議ですよね。
ヒットラーの大量虐殺は有名ですが、
この連鎖はまだ現在も続いています。
- イスラエルの秘密諜報局、
- 中流階級のドイツ人主婦、
- フランスの捜査官、
- ユダヤ人虐殺の生き残り
などの秘密工作員や復讐者が、
ナチス残党の生き残りを追跡し捕まえ、
法律で裁くためにナチハンターというグループを結成しています。
これにより今現在も身分を隠して生きる元ナチス兵達は、
強制的に拉致され死刑や終身刑になっているのです。
このように同じ命でも視点により軽んじることもあれば
重んじることすらもあるというのが現実であり人間心理です。
では戦争を起こさないための方法はあるのでしょうか?
何十年間もの歴史で人の命は重いと教えられても
戦争や殺人で軽々しく命が消えていく矛盾で何を学んできたのでしょうか?
例えば6つの連合国からなる旧ユーゴスラビア。
(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)
1991年にソ連が崩壊したことで、
社会国家が低迷しユーゴスラビア国内で民族同士の紛争がおきました。
クロアチアにあるリチコペトロボ小学校は
800人以上が学んでいましたが、紛争で廃校に。
しかし紛争終結後、戻っていた家族の要望で再開。
全校児童は、なんとたったの3人です。
しかもその3人は
- セルビア人、
- クロアチア人、
- ボスニア人
宗教も
- イスラム教徒、
- カトリック教徒、
- ギリシャ正教
こうした民族の違う生徒を1人の先生が教えています。
もちろん戦争についても教えますが、
何年にどういう出来事が起きたか歴史的事実だけを教え、
解釈は子供達にゆだねられています。
子供たちが興味を持てば周囲の大人に聞いて、
それぞれが自分の意見を持てばいいのです。
そこでジャーナリストが、
3人の子供に戦争についてどう思うか聞いてみました。
すると
- 「意味のないこと」
- 「やらなくてもいいことだったと思う」
- 「いま仲良ければいいんだよ」
もし紛争が続いてれば親同士が命を奪い合っていたかもしれないのに、
彼らが話し合うのは恨みや憎しみではなく、
戦争そのものについてであり、
戦争がいかに無意味なことであるかを学んでいるわけです。
つまり
生きている者の使命は何を学び、どう生きるべきかが大事
なことなのではないでしょうか。